某日>久しぶりに東京に住む息子が来宅しました。僕も彼も4月生まれなので、ひと月遅れの誕生日のお祝い食事会を我が家でしたのです。
僕は70歳、彼は35歳になりました。ちょうど半分です。「何か意味がありそうだなあ」と思いながら、随分前に買っておいたジョニーウォーカー黒ラベルを開けることにしました。このウイスキーは20年以上前に買って、「息子が大人になったら一緒に飲もう」と思っていたのです。
大人というのを成人と考えたら20歳ですが(法的には現在18歳で成人ですが、飲酒許可は20歳のままです)、僕は35歳大人説を主張しています。18歳から35歳までは、若者または青年と呼べばいいと思います。大人というものには、社会に出て10年以上それなりの苦労をしないと成れないと僕は考えているのです。
僕は「45歳」という詩に、「15歳から25歳までは感受性を磨く/25歳から35歳までに考えるということを身に付ける」と書きました。感受性と考える力を備えてこそ大人だと僕は思っています。
ということで、彼と添人の道子さんと3人でジョニ黒のソーダ割り(ハイボールと言っても良いのですが、本来ハイボールとはアルコール度の高いお酒をノンアルコール飲料で薄めたカクテルのことなのでソーダ割りだけではないのです)で乾杯しました。美味しかったです! それから道子さんの美味しい手料理で楽しい祝宴が続きました。
もちろん乾杯の前には、彼の好物である僕が作るアイスティーでいちごのショートケーキを3人でいただきながら、「お誕生日おめでとう!」と言い合いました。
某日>朝、残り湯を温めて入浴しようとしたら、温かいシャワーはできるのに追いだきはできなくなっていたのです。ゴールデンウィークのさなかですぐに修理できなくて、九日間大きなたらいに貯めて置いたお湯で体を洗っていました。
と書きますと、「なぜ近くの銭湯に行かないの?」と言われると思います。そうですよね。いくら経済的に豊かでない詩人の家庭でも一日二日ならいざ知らず、九日間は長過ぎます。でも探しても近くに銭湯はなかったのです。以前にあった幾つかの近場の銭湯が全て廃業または休業だったのです。毎日電車に乗って銭湯に行くのも面倒だし、帰りに湯冷めして風邪を引くなんて最悪ですからね。
ということでたらいのお湯でとなったのです。
大災害で水道、電気、ガスが止まったらと想像した時、能登の地震で政府や県の準備の無さと対策の遅さをしっかり見せてもらったので、暗たんたる気持ちになりました。
某日>正確には26日日曜日からの3連泊で広島へ行きました。原爆ドーム前で、①「ヒロシマ、ナガサキの詩
4編」②詩と写真のポストカード「原爆ドーム夜景」③詩集『愛する心に優しい花が咲く』の抜粋版、以上3点セットを100名の方を目標にして手渡ししてくる、というものでした。
9年前の2015年にも原爆ドーム前で、ヒロシマ、ナガサキの詩などを書いたヒロシマペーパーを手渡ししました。今回と同じく3連泊で、1000名の方に一人で手渡ししてきました。
今回目標を100名にしたのは、61歳と70歳の違いだけでなく、前回は子ども出版から1名のサポートが付きましたが今回は全くの僕一人だということで、無理をしないことにしたのです。そしてもう一つ大事なことは、声を掛けて手渡すだけというのではなく、少し時間をかけて話しをしながら手渡しをしたいということでした。
26日は、新幹線さくら553号が広島に着いたのが12時51分でした。午後の手渡しは連日15時半から17時までを予定しているので、宿泊先に荷物を預けて昼食へ行くことにしました。ホテルの近くにあまり店がなかったので遠くまで行って食事することになり、随分歩いて疲れました。ホテルで手渡しの準備をして、15時半に間に合うようにそこを出たのですが、原爆ドームの少し手前でベンチに座っておられた広島のご夫婦と少しお話ししたので、10分ほど遅れて原爆ドーム前に着きました。
27日月曜日は、前日の昼食の店探しでの疲れが出て夜には左足ふくらはぎの外側が痛かったのと、朝から小雨が降っていたこと、そして13時半から17時頃までの中国放送RCCによるテレビ放送のための取材が予定されていたので、エネルギーを温存しておくために朝の手渡しはやめておきました。そしてゆっくり部屋で取材される準備をして13時10分頃に広島平和記念資料館前に着いて取材スタッフを待ちました。13時20分頃に記者さん、カメラさん、音声さんの3名が来られて取材が始まりました。
2箇所での僕に対する長めのインタビュー撮影と僕が話し掛けながら3点セットを手渡しする様子などの撮影がされ、3点セットを受け取ってくださった方への短いインタビュー撮影もされて、17時頃に取材終了となりました。(この取材による放送は、夕方ワイド『イマナマ!』の17時前後にニュース特集として5分間ほどが予定されています。放送日は未定ですが「ニュースディグ」というアプリを取得していただいたら、放送後にアップされたものが観ていただけます。)
テレビ取材が終わる30分ほど前から、中国新聞の取材がカメラ撮影として始まっていました。17時過ぎに手渡しを終えた僕と中国新聞のお二人とは近くの喫茶店に入って、若い方の文化担当記者さんの取材を1930近くまで受けました。
28日火曜日は、本降りの雨が昼過ぎにやっと小降りになってからやみました。前日の取材疲れと本降りの雨だったので、この日も朝の手渡しはやめておきました。昼過ぎに資料館へ行って、資料館でポストカード「原爆ドーム夜景」を販売し、「ヒロシマ、ナガサキの詩 4編」を配布していただくということを館長さんにご提案しようとしましたが、館長さんが会議中だったので学芸課の主事さんにご説明して資料を託けて退館しました。
平和公園で何人かの方に話し掛けながら3点セットを手渡しして15時半には原爆ドーム前に着きました。
すぐに昨日の中国新聞の文化担当記者さんが追加取材に来られ、カメラ撮影もして帰られました。
16時半頃には毎日新聞の記者さんが来られ、僕に挨拶されてから僕が話し掛けながら手渡しする様子などをカメラ撮影をされました。その方と17時の手渡し終了後に近くの喫茶店へ行って、19時過ぎまで取材を受けたりいろんなお話をしました。
29日水曜日は最終日です。100名の方に手渡しする3点セットは100組と予備の30組を合わせて130組用意して広島へ行きました。帰りに何があるか分からないのと記念に持ち帰りたいと思い、3組は残して帰りの新幹線に乗るつもりでした。前夜にホテルの部屋で残りを確認したら、手渡しできるのは15組ほどしかありませんでした。
ということで、朝の手渡しは12時の少し前に原爆ドーム前に着いてすることにして、前から行きたかった広島陸軍被服廠(赤レンガ倉庫)へ行きました。9時40分頃に着いて11時前まで写真撮影をしました。急いで原爆ドームへ着いたのは12時40分頃でした。
手渡しをしていたら、前からお会いしたかった広島の方が12時直前に来られました。手渡しを終了して、その方の案内で昼食の店へ行き、14時20分頃までゆっくり食事をしながらいろいろお話ししました。
広電に乗って帰られるその方を見送ってから、『愛する心に優しい花が咲く』と『こどものためにあいうえお』を15冊ずつ注文してくださった紀伊國屋書店広島店の詩集担当の方にご挨拶しに書店へ行きました。エレベーターを出てすぐ前と詩集コーナーの2箇所に2作品を面置きしてくださっていました。しっかりお礼を言って退店しました。
ゆっくり歩いてホテルへ戻り、預けていた荷物を受け取って広電に乗って広島駅へ向かいました。広島駅に着く少し前に座っている僕の隣に立っておられた若い女性に話し掛けて最後の3点セットを手渡しました。広島駅に着いて別れる時に「気を付けて帰ってくださいね!」と笑顔で言ってくださいました。
残り3組の3点セットを持って18時53分発の新幹線さくら568号に乗車しました。
言い忘れていましたが、26日の出発時、我が家の玄関を出て10mほど歩いて階段を下りるためにキャリーケースを持ち上げた瞬間に、ブチッ!と取っ手が取れて、手には取っ手、足元にはキャリーケースという状態になりました。すぐに帰宅して、添人のキャリーケースに荷物を移し替えて出発しました。
落ち着いて考えたら、玄関出てすぐのアクシデントで本当に助かりました!
(手渡しした方々とのことを書いていたら長い長い長い文章になるので割愛させていただきました。あしからず。)
某日>テレビ放送のためのインタビューや新聞取材でも、「なぜ今、広島で詩の手渡しをしようと思われたのですか?」と尋ねられました。
3月3日に毎日新聞ウェブニュースとYahoo!ニュースでネット配信された、詩「イスラエルの母たちへ、そして父たちへ」の記事の後、変わらないで続く戦争や、戦争の準備をやめない国々のことを考えました。どれほど沢山の犠牲を経験しても戦争という人殺しをすることをやめようとしない人たちが世界中に沢山いることに情けなさと心の底からの怒りを感じました。情けなさは、他者に対して愛情を持って優しく関わることが人としての唯一の正しい生き方だ、ということに気付かない人が沢山いることに対してです。怒りは、自分の利益のためには他者の命、他者の人生をめちゃくちゃにすることを何とも思わない、という人たちが多くいることに対してです。
こんなひどい世界で社会で子どもたちを優しい人間に育てることはできません。僕にできることは、僕の書いた詩を沢山の人に届けて、愛と優しさの大事さを深く感じ、理解してもらい、社会を良くするために自分ができることをし始めてもらうしかない、と思ったのです。
で、少しでも早くと準備して、5月末に原爆ドーム前に立ち続けることにしたのでした。
たった四日間で4回の手渡しでしたが、15分か20分ほども僕と話してくださった方もおられました。僕と話しながら涙を流された方もおられました。僕自身も何度か涙ぐんだり大泣きしたりしました。
外国から来ておられた方にもスマホの翻訳アプリを使って、10名以上の方に3点セットを手渡ししました。
そんな広島2024年5月でした。