『詩経』の大序に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為(な)し、言に発するを詩と為す」とあるそうです。
心に志のない人間には本当の詩は書き得ない、ということでしょう。作詞家や作詩家という人達と詩人との違いについて、ほとんどの人は考えないと思います。しかし、その両者は根本的に違うのです。
お金で依頼されて仕事する作詞家や作詩家にも、詩のようなもの、詩の形式で書かれたものを作ることは可能です。可能だからこそ彼ら(彼女ら)の仕事が成り立っているのです。だが、本当の詩とは依頼されて書けるものではない、と僕は思っています。
依頼されて「志」が作れないように、依頼されて作れないのが「詩」だと思います。
最近はあまりしないのですが、かつては映画や本などで気に入った言葉に出合ったら、よくメモをしていました。
先日、ジョン・ハートの『川は静かに流れ』(早川文庫)という評判のいい小説を読みました。僕としては「まあまあ」という評価でした。ただ、登場人物のある言葉に心臓をギュッとつかまれました。この言葉に出合えただけで、この小説にかけた何時間かが無駄にはなりませんでした。
特別な言葉ではなく、やさしい言葉を使って当たり前のことが語られています。しかし、心の底まで届いたのです。作った言葉、飾った言葉ではないから、言葉の持つ本来の力が発揮されたのでしょう。詩ではないのですが、詩を感じました。
「人生は短いのよ、アダム。心から大切だと思える人にはそうたくさん出会えない。だから、出会えた人を手放さないためには、どんなことでもするべきよ」
原因は不明ですが、10月初めの夜、我が家で倒れました。
添人と二人で晩御飯を終え、イスに座って会話をしていた時のことです。特に何かがあったわけではないのに、頭のてっぺんから足先に向けて、徐々に力が抜けてきました。多分10秒くらいかけてのことだったと思います。
イスに座っていることさえできなくなって、床にくずおれたのです。ただ驚きながらも、〔このまま死ぬのだろうか〕〔今はまだ死ねないなあ。まだやりたいことが残っているからなあ〕と考えていました。添人が、血の気の引いた青白い顔(後で添い人に言われた)の僕にフトンを掛けながら励ましてくれました。しばらく横になっていたら少し元気が戻ってきました。〔助かった〕と思いました。
あんな風にいつか死ぬのかも知れませんが、今はまだ死にたくありません。やらなければいけないと思っていることがあるし、やりたいことも幾つかあります。なぜあんな状態になったのかは分かりませんが、「無理しないで充実した日々を送ろう」というのが今の思いです。